太平洋戦争終結までの長きに渡った南洋庁の時代、南太平洋の地での成功にあこがれ、現地人よりはるかに多くの日本人が、ミクロネシア地域に渡りました。夢を追い求めて忙しく動き回る男たち、そして日傘に下駄の婦女子が行き交う道には、食堂や映画館がにぎわい、商店の軒が両側に連なって、島という限られた土地を貫くかのように、長く長く続いていました。
敗戦がいろ濃くなるにつれ軍人の割合が増え、兵士として借り出された現地人ともども出兵し、命を落としていきました。終戦寸前には、生き延びていた軍人や、現地人と結ばれ家庭を築いていた日本人も、帰国を余儀なくされ、妻や混血の子供達を残して、本土へ帰って行きました。やがて戦争は終わり、あとに残された現地の妻たちや、日本の名前を持つ多くの子供たちは、美しい海の向こうに夫や父親を想いながら、ときは流れてゆきます。
前置きが長くなりました。そんなミクロネシア連邦チューク州の島のひとつに、青春時代の数年間を過ごされた方が、この日駐日ミクロネシア連邦ジョンフリッツ大使を、蒲田女子高等学校表敬訪問にお連れ下さった、羽田ロータリークラブの岩田直幸氏です。
岩田氏は現地でのお父様のお仕事を引き継ぎ、毎日チュークの人々とふれあいながら過ごされました。美しい日本語を話し、穏やかで礼儀正しい年配の人々とは日本語で会話し、若い人たちからは毎日チューク語を習って生活されたそうです。帰国する頃には無意識のうちに、チューク語で考えていたりして、ご自分でも驚かれたとか。今でもチューク出身の大使や大統領とお会いになると、現地の言葉で冗談などを交わされ、実体験を通して太平洋を理解していらっしゃる希有な方であります。
さて大田区萩中にある蒲田女子高等学校では、保育専門学校や付属幼稚園を有し、情報化・高年齢化時代の変容に対応できる人間性と専門性、さらに国際感覚に明るい人間を育てる事をポリシーに、さまざまな教育に取り組んでいらっしゃいました。
漢文に必要不可欠で、日本唯一の旧仮名使いで引ける辞書『字源』の編纂に大きく貢献された漢文学者、簡野道明先生の御意志を継いで、夫人が設立された財団法人簡野育英会が、女子教育の重要性を軸に設立した学校なのだそうです。
全国女子高等学校公式野球大会での優勝、バトミントン部の活躍、また吹奏楽部の高齢者施設への継続的な訪問などを含め、身体、知識、実体験が上手く融合する教育の成果は高く評価され、テレビや新聞などでも取り上げられ、広く知られるようになってきました。
大学院まで日本で教育を終えたフリッツ大使は、ことのほか教育に関心が高く、よく研究されています。この日暖かくお迎え下さった蒲田女子高等学校の皆さまには、こころより感謝致しております。
来週9月25~26日に行われる学園祭の有竹祭では、生徒さん達がミクロネシア連邦の研究発表をして下さるとか。楽しみに致しております。
hint*チュークはトラック;
日本時代からチュークはトラック島と呼ばれるようになり、その呼び名は日本人が去った後も定着し、つい近年まで公式にトラック州とされていました。現在ではようやくチューク州として、本来の名前に戻っていますが、日本の方々にチュークと言っても通じない事が多く、逆にトラックと言うと、”ああ、聞いた事ある”となるようです。
*写真は左より渋谷守校長、岩田直幸氏、ジョンフリッツ大使、簡野高道理事長のみなさまです。